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「最もナショナルなものこそ、最もインターナショナルたりうる」
という言葉がある。文化、とりわけ芸術の領域において、これは極めて深い意味を持つ言葉であろうかと思われる。その国土が、必然
的に醸し出している香りや色彩や形態や精神が、ある明確な具体世 界を作りあげると、それは必ず異なった風土の、多種多様な精神に自らつながって行くことを、私たちは気づかされる筈だ。音楽にお
いても、絵画においても、文学においても、それは同じである。戦後生まれの坂上さんが描く屏風絵を観て、人はあるいは難じて呟く
かもしれぬ。「どうして、今どきこんな古風なものを・・・・・」と。 しからば、いったい新しさとは何であろう。歴史に耐えてきた古典
を古くさいと評する人は、その人が取りあげようとしている「新し さ」を選び出す段になって、己が時代に踊る一知半解の小才子であることを心のどこかで思い知りつつ、壁に突き当たって仕方なく贋物を本物に仕立てあげる愚を犯してしまう。そんな例は、枚挙にいとまがない。現代は、贋物が本物を追い払っている時代である。新
しさというものに対する謝った概念が、あらゆる芸術を停滞させ衰弱させてしまっていると私は思う。「新しさ」などない。いいか、悪いかしかないのだ。
小林秀雄氏は、「無情といふ事」の中でこう書いている。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。これが宣長の抱いた一番強い
思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。まことに至言である。有無を言わさず、人を魅きつけるものこそ、美しいので
ある。そして、それこそがいつも「新しい」のである。坂上楠生さんが、若年にして、日本画の中でも最も古典的な手法を使い、ある場合は絢爛に、ある場合は幽玄に、「月下秋風図」や「桜春図」や「日月春秋図」を描くとき、そこには日本古来の手法の底に、坂上さんの情念が妖しく沈んでいる。その余人の読み取れぬ彼の情念が、有無を言わさず人々を酔わせたとき、坂上楠生の絵は本当の「新しさ」がどんなものであるかを、我々の前に明示してくれるだろう。 |
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−−−「命の器」講談社刊より転載
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